いぬのきんたまの裏

秘密結社です。秘密なので秘密っぽいことしてます。

お仏壇のは◯◯わ

おれっちは一応「文学」のつく学科にいるので文学の話と絡めて話すぜ

 

ところでおまえら、ケーキを三等分に切り分けてって言われたらできるか?

時計で言えば12時、4時、8時のところに線を引けば三等分になるよな?

そんなん簡単やんって思うかもしれない。

でも出来ない人がおるんよ。

 

今日はさっき読んで面白かった本を紹介します。

宮口幸治著『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)です。

 

この本は、児童精神科医である筆者が、少年院に入ってしまうような非行少年たちを診察していく中で、今まで見過ごされてきたこと、少年たちが「反省以前の子ども」であることに気づき、それについて書いた本です。

筆者は少年院にいる少年たちの多くが軽度の発達障害や知的障害を抱えており「認知のゆがみ」があることに気づきます。

ケーキの話はこの本の表紙(特装版なのでしょうか、二枚ついてきました)にもなっています。

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冒頭で話したケーキを三等分に分けるという課題、これを非行少年に出したところ上の画像のように線を引いたそうです。しかもかなり悩みながら。

 

このような「認知のゆがみ」がある非行少年たちに何がいけないのか、どうしたら良いのかを話して反省させようとしたところで、そもそも彼らは大人たちが何を言っているのか理解ができないのです。つまり「反省以前の子ども」が少年院には沢山いると筆者は述べています。(だいたいあらすじに書いてあることをなんとなくまとめました。詳しくは本を読んでね。)

 

さて、ここからはあらすじに書いてないことに触れますので注意してください。

鹿の写真の後に続きを書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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シカァ‥

この本にもあるように、非行少年たちがまずすべきことは「自分を客観視できる能力」だと思います。

自分を客観視する能力は他者との交流の中で育まれるものです。他者が「私」に対して見せる態度、発言等を総合的に判断し他者の目を通じて「私」は形成されます。

しかし多くの非行少年たちは人と話すことが苦手で孤独です。よって、孤立しがちな少年たちは客観的に自分をみる機会がないのです。

 

他者を通じて「私」を知るというのは、小説の中でも行われている作業です。某先生いわく、文学はおもに二つのテーマについて書かれているそうです。一つは生と死について、もう一つは自己と他者の関係についてです。この二つは人間の永遠のテーマというか、克服したい悩みでもあります。それを文字にすることにより解決しようとする試みが作品として現れるのでしょう。

 

たしかに他者の目を通じて「私」が何者なのかわかるような技法を使った作品は沢山あります。例えばジェイムズの『デイジー・ミラー』は語り手や登場人物の発言を通じてデイジーがどんな女性なのか分かります。つまり他者によってデイジー(私)の姿が形成されるのです。

またマイラブフレンドから指摘されたのですが、今村夏子の『むらさきのスカートの女』にも同じく当てはまります。この作品のなかで、語り手である「私」はむらさきのスカートの女をストーカーの如く観察をしています。語り手がむらさきのスカートの女や周りの登場人物についてベラベラ話すので、彼らのことはよくわかります。しかし、肝心の語り手が一体どんな人物なのかは語られません。謎の変人ストーカーであるということは分かりますが、語り手の名前や生活はわかりません。しかし、登場人物がぽつりぽつりとヒントをこぼします。これらの数少ない手がかり頼りに語り手が一体何者なのか読者はわかるという仕組みです。村田沙耶香(別名クレイジー沙耶香)を思い出させるような狂気を感じる話です。是非読んでね。

 

さて、非行少年の話に戻ります。自己と他者の関係が人間の永遠のテーマと言ったように、これでつまづく人は非行少年に限らず多いものです。生きづらさを感じる非行少年ならなおさらです。

他者とは「私」を映し出す鏡の役割を果たしているように思えます。「私」は鏡(他者)を通じて自分を映し、自分が何者なのかを知ることができます。デイジーもそうですし、『むらさきのスカートの女』の語り手もそうです。この話に至っては、手がかりが少ないので「私」を映し出す鏡はきっと鏡台のような大きな鏡ではなく、アイブロウの蓋についてくるような小さな鏡なのでしょう。

しかし非行少年たちは鏡を持っていません。鏡を持っていない人がどうやって自分の顔の形や目の色や歯茎の様子を知ることができるでしょうか?

また、非行少年たちは「認知のゆがみ」を起こしています。例えば誰かがヒソヒソと話していると「自分の悪口を言っているのではないか?」とか、挨拶をして返ってこなかっただけで「挨拶を無視された、嫌われているんだ」と思ってしまうのです。ヒソヒソ話す声や挨拶が返ってこないのを「気のせいだ」とか「聞こえなかったのかな?」と柔軟に考えることができません。つまり鏡が歪んで見えてしまっているのです。だから、他者との交流があったとしても、自分を映し出す鏡が歪んで見えるので実情から大きく乖離した「私」が出来上がってしまいます。

 

筆者いわく、彼らは自分のことをよくわかっていないので、自分への評価は実情と大きくかけ離れているそうです。例えば人を殺したある少年は自分を「優しい人だ」と評価しました。自分をわかっていないということは、自分のしてしまったことがどれだけ大事なのか、自分の置かれている状況がどのようなものか理解していないということです。この状態では「大変なことをしてしまった」と心から反省させることは難しいでしょう。だからまず、非行少年たちは自分を客観視する能力を身につける必要があるのです。

 

もちろんどんな理由であれ犯罪は許されることではありません。しかし非行少年たちは悪いことをするしかもう選択肢がなかった人たちです。社会から溢れてしまった人たちです。わたしはこういう人たちが溢れ落ちてしまわないようにしてあげたいなって思います。わたしは非力なので社会全体を変える気力は起きませんが、せめて目に届く範囲の中ではなんとかしたいとおもうのです。

‥実際は自分のことで精一杯なんだけどね。

 

 

きんたまのシワとシワを合わせてしあわせ

チーーーン(ポ)